ヴィオロン弾きのゆるり思考録

毎日弾いて読んで聴いて弾く。アラサー女子の駄文エッセイ

『リア王』〜狂気は、心を守るため

 

シェイクスピアの『リア王』、読んでおりました。

先月は『ジュリアス・シーザー』を読んで少しシェイクスピアづいて?いるこの頃だけど、リア王に関しては色んなところで「シェイクスピア作品の中でも特筆の名作」との評判を見ていたので気になっていた。読んでみてあぁ、これはすごいわ、と超納得でした。一気に読み終わったよ。練習夜にずれ込むまで。。

 

(以下ばっちりネタバレ)

 

 

読後感、茫然自失。この世に本当に神さまはいるのでしょうか。いたとしたら、なんと酷い仕打ちばかりを、しかも善良な人々にこそと言わんばかり。

(なんか文章がちょっと劇っぽくなってるような…笑 気にしない気にしない

 

数少ない救いと言えば、リアがコーディリアと和解できたこと、エドマンドのわずかな改心(?)、ケントとエドガーの仲間たちとの邂逅、グロスター伯爵(エドガー父)の亡くなる直前の微笑み。

冒頭では「いきなり勘当って、ちょっと短気すぎはしないか、リアお爺ちゃん…」と思ったし、リアに正直あんまり感情移入できずにいた。

けれど、コーディリアとの再会から死まで、半ば正気を取り戻してしまうとは。。せっかく正気を失うことで、胸破れるほどの悲しみから自分を守ろうとしていたのに。運命の残酷さ。

 

劇中ではほぼ語られていないけれど、フランス王も悲しい運命だ。王に捨てられ財産も一切持たないコーディリアを、王の短気を嘆きながら快く娶った寛大なフランス王。その優しさゆえに、イングランド攻めに同行せずにそのままコーディリアと別れてしまうなんて。

 

このお話では優しい人が皆悲しい思いをする。

報われてよいひとが報われない。でも、罪人たちにバチが全く当たらない訳ではない。それは直接的な罰ではないかもしれないけれど、彼らは報いとして自分を苦しめている。

 

コーディリアのふたりの姉は最後までお互いに妬みと憎しみをたぎらせて、心は乱れっぱなし。エドマンドだって策を巡らせすぎた分、どこに敵がいるか分かったものではない。心中穏やかとは程遠かっただろう。

 

シェイクスピアとは関係ないけど、老子の言うとおりかもしれないなあ。

名誉や名声、成功には一瞬の輝かしさは約束されるけれど、それは束の間のこと。いつしか誰かの妬みや不興を買い、下手をすれば命を奪われるかもしれない。

それなら、栄誉を背にしても。慎ましく心穏やかに生きるほうが巡り巡って幸せなのではないか?

(でも、ごめんなさい、自分でこう書いておいてなんですが、私はまだ名声や成功を求めたい年頃でした

エドガーとケントはみすぼらしい姿に変装したからこそ、しっかり忠誠を果たせた。

エドマンドは名誉にこだわった挙句最後には、出し抜きたかった兄、自ら裏切った兄に討たれた。

 

本当に古今東西、語られる真実は一緒なんだなぁと思う。なぜかといえばどの時代の人間も、皆んなして同じことを繰り返すからなんですよね。

人間は本当になーんにも進歩していないんだ。

 

それを、こんなにも感動的な作品にしてしまうシェイクスピアは、やはりすごい。

 

舞台を観たくなりました。

 

ではまた!

 

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インターネットで愉しむ夕べ〜バッハ、バーンスタイン、ガーシュウィン

・・・三人目とはこれを書いてから触れ合います。

『パリのアメリカ人』組曲をヴァイオリン、ピアノ、サクソフォンのトリオ(結成している)に編曲中につき。現在ようやく4分の1ほどまできた。メンバーと先生の反応からみて経過は順調らしいです。とりあえずほっ。まだまだ道のりは長い。。

 

今グレン・グールドの演奏で、J.S.バッハ『ゴルドベルグ・ヴァリエーション』を聴いている。

彼の演奏はマジックだ。レパートリーによっては独特すぎて「グールド風」になってしまうことも珍しくないが、ことバッハではとっても抒情的に人間的に、それでいて自然のままの魅力を伝えてくれる。「人間」バッハを見せてくれる。

私はグールドの演奏で、次の音を待っている瞬間、伸ばしている音に聴き入るのが好きだ。あとは、ディクション。

音を伸ばしている瞬間というのは何も音を弾いていない時間だが、次の音を待つこの時間にいかに物語るかが、演奏全体の印象を決めると言ってもいい。なぜならそれは演奏家の音に対する姿勢そのものから。

グールドのそれはなんと雄弁で、惹きつけられることか。

 

夜ごはんを食べながらバーンスタインのハーヴァード大学での講義をみた(Youtubeにあります)。一回分およそ2時間、全6回にわたる長い講義ビデオ。

まだ全部見ていないので紹介は遠慮しておくけれど、音声学に始まって、各作曲家の作曲言語について、そもそも音楽とは、などなど。

特にストラヴィンスキーの作曲を取り上げてneo-classicismについて、言葉と音楽がどう絡み合っているか解説しているところ、最高に面白い。何回か見ないと(英語だし)ちゃんと消化できなそうだけどね。

 

ご興味あれば。

youtu.be

 

こんなものがインターネットで見れるなんて信じられない。だってこれが40年前であれば、講義を聞くためにわざわざボストンまで出向かなければいけず、もしかしたら学生・卒業生でなくては(人気講義すぎて)中に入れなかったかも・・

それに、ビデオ・アーカイヴにしたって特定の人限定で、図書館へのアクセス権がなくては視聴できないとかだったかも。こういうところでインターネットの恩恵は計り知れない。

 

インターネットといえばSNSですよね。私はもうsick of SNSです。。

SNSは一度覗いてしまったら最後、意思の弱い私なので、気づけば30分は平気で過ぎるし、特に友だちの日常なんて興味がないことをわざわざ見させられて(いや、見ているのは私だ!!)無駄にみじめな気分になったりやる気がしぼんだりする。

アデュー、SNS。といいたいが、やっぱり演奏とかの宣伝のためにふたつは残して置かなくてはならず。別れたいけど、若干依存しちゃってる。付き合い方が難しいことにかけては恋愛となんら変わらない、なんてうそぶいてみる。経験かなり乏しいけど。何を言っているんだ私・・

 

愚痴っぽいことは一応小文字にしてごまかします。笑

 

さて、そろそろガーシュウィン様にこんにちは(いや、こんばんは)しないと。

ではまた!

 

 

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時はめぐる[今週のお題より]

 

もうすぐ敬老の日だそうな。

 

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(写真は実家の近く、善福寺公園。)


今週のお題は「おじいちゃん・おばあちゃん」ということで(挑戦してみたかったんですこれ!)、

少し考えてたことも絡めて書こうかなと思う。というのも最近、よく彼らのことを思い出すからだ。そして、どんな人たちにも親がいて、時間は無情に流れていって、誕生と別れを繰り返して、これまでにも世代は果てしなく受け継いできたのだ、というもはや当たり前のことを、最近頻繁に考えて感傷的になっている。何でなのかはよく分からない。職業柄、過去の人物と触れ合うことが日常だから、という理由かもしれない。

 

私の祖父母で、今でも健在なのは父方の祖母だけになってしまった。

 

両親は同じ東北地方の県出身なのだが(地元で出会った訳ではない。ご縁ってすごいなぁ)、私の小さい頃は、折あればよく母方の実家に帰っていた。私が「おばあちゃん」と慕って懐いていたのは母方の祖母。母方の祖父は私が生まれてすぐに亡くなった。おばあちゃんは朗らかで優しくてチャキチャキしていて、声が明るい人だった。

電話するといつも「はい○○○○(名字)です」と応えるのだけど、それが割に独特のアクセントで、今でもありありとその声色で思い出せる。

私が名前を言うと、「はい!みさこちゃん!元気ですかっ?」と嬉しそうに答えてくれて、小中学生の頃は声を聞きたくなると頻繁に電話で話していた気がする。

 

私が留学する少し前から、いろいろ複雑な事情が重なってあまりおばあちゃんの家を訪ねられなくなり、電話も出来なくなった。電話口の声もだんだんと元気が無くなった。母もその事情関連では、かなり悩んでいた。私にはなす術がなかった。

 

私の声は母に似ているらしく(自覚はないのだけれど)、今では名乗るまで父も叔父も間違えるくらい。

当時からおばあちゃんも、孫の私だと分かるととたんに声が明るくなっていた…これも今思えば、ある意味で子どもの私に対する配慮か、複雑な本音をそっと隠して接するためのある種の(語弊はあるけど)よそよそしさだったのかも知れない。

がその頃には、孫の名前というパワーワードも効かなくなっていて、おばあちゃんの少し沈んだような声のトーンが私をとても不安にさせた。

 

その後も機会を見つけてはなるべく会いに行ったりしたけれど、だんだんとおばあちゃんの方が私たちに会いたがらなくなった。それは、私たち娘家族を心配させたくなかったからに他ならないということは、皆んなよく承知していた。だけど、そのことが何とも寂しく侘しかった。一番寂しく辛かったのはおばあちゃんだろうに。

この気丈でチャキチャキのおばあちゃんは、自分の老いとか脆さとか、そういうものを見せるのがきっと一番避けたいことだったに違いなかった。湿っぽいことが何より苦手だったのではないかと思う。

 

でも結局、私はあの思慮深い他人思いのおばあちゃんのことを、何も分かることが出来なかった気がしている。外国にいて、色んな事情でお葬式にも出られなかった。今でもはっきりと、声も表情も笑い声も思い出せる。孫の私が出来る恩返しはなんだろう、といつも考えている。

 

父方の祖父母とは、おばあちゃんとのような密な関係はあまりなかった。これにも色々事情があったのだが。

父方のおじいちゃんは、きっと自分にとても厳しいひとだった…と思う。父方の実家はあまり裕福ではなかったが、おじいちゃんは本当に誇り高い、心にすっと筋の通ったひとだった。達筆で、毎年の年賀状はいつも手書きの立派な大きな字で書かれていた。訪ねると、よく書を嗜んでいた。

けれど、愉しみの多い人生、という訳ではなかった印象が(勝手ながらに)ある。幼少期も若い頃も色々な苦労があったそうだ。生き抜いてきたあらゆることの厳しさを、その眉の濃い顔に湛えていたように思う。私がフランスに留学することをものすごく喜んでくれていた、というのをよく覚えている。

父方の祖母は、ほとんど話さないひとだ。…こんな紹介になってしまって、おばあちゃんごめんなさい。

今は施設にいて、人とのコミュニケーションに慣れたからなのか前よりも話すようになったけれど、私の小さい頃、彼女から言葉を引き出すのは本当に難しかった。母方のおばあちゃんとは全く対照的だ。おばあちゃん(母)とおじいちゃん(父)は、会うと色々と話していたけれど、おばあちゃん(父)は黙ってその場にじっとしていた。

 

そういう人なんだよ、と当時の大人たちは言っていたけど、これはきっとおばあちゃん(父)のいわゆる「性格」ではないと思う。おばあちゃん(父)は読み書きの教育を受けなかった。思っていることはたくさんあるに違いないけれど、きっとあの厳しいおじいちゃんの側で、自分がおいそれと口を開けない、なんて、もしかすると少し抵抗を感じていたかも。あくまで想像だけど。

おばあちゃん(父)が私たち家族の訪問中の数時間、だんまりで居続けるのを見て、いくらそれがもどかしいとか、むしろ子供心には少し怖くさえあったとは言っても、今それを考えると何となく、彼女自身が考え無しだったとは思えないのだ。むしろおばあちゃんの慎み深さとか遠慮とか、そんなところが見えてくる気さえする。

それは彼女が育てた父や叔母たちを見ていて、この年齢になってから思うことだ。もう少し経てばまた違ったように思うのかな。

 

さて、簡単で極めて主観的な紹介になったが、これが私の祖父母たちである。孫として、とても誇らしく思える人たち。母方の祖父に、会ってみたかったなぁ。話をしてみたかった。どんな風に語りかけてくれたかな。

何がいちばんやるせないかと言えば、こんな風に思えるようにようやく成長した今、彼らのほとんどはこの世界から旅立ってしまっているから。この世では、私の感謝や誇らしさを伝えられないから。また、今だからこそ理解できるかもしれないことを「教えてください」と簡単にはお願いできないところに行ってしまったから。

 

この夏は日本にいたけれど、コロナ禍なので帰省を自粛せざるを得なかった。

今度帰っておばあちゃん(父)に会ったとき、どんな言葉を掛けようか。

 

だいぶ暗い内容になっちゃったかも。

でも人生には、明るい部分があれば必ず影もあるでしょう?祖父母を思い出すとき、私はその影の部分を強く意識してしまうのだ。

これはひょっとすると、彼らからの尊い教えなのかもしれないです。

 

敬老の日、感謝と尊敬を込めて迎えたいと思います。(そしてサピエンス全史を読み進めさらに過去の人類にも敬老の気持ちを送りたいと思います。

ではまた!

 

 

 

 

[オペラ鑑賞記録]Richard Strauss «Electra» 2020.9.11公演

[オペラ鑑賞記録]

Richard Strauss «Electra»

Musical direction : Harry Kupfer / Wiener Staatsoper Orchestra
 
Klytämnestra : Doris Soffel
Electra : Ricarda Merbeth
Chrysothemis : Camilla Nylund
Aegisth : Jörg Schneider 
Orest : Derek Welton 
 
初エレクトラ。所々でものすごいワグネリアンだなと思ったけど、最初からすごくシュトラウス。サロメ、ツァラトゥストラ、ドン・ファンや『4つの最後の歌』もしっかり聴こえてきたよ。
オレストとの再会の場面はまさに恍惚の美しさ。あれ、弟だよね?恋人じゃないよね?と思うくらい。笑

エレクトラ役のRicarda Merbeth、素晴らしい声量と叙情味溢れる声。

そして圧巻のクリュテームネストラ(エレクトラの母親で、愛人と一緒に夫を殺害…怖すぎる)役のDoris Soffelの演技。クリュテームネストラは気味悪い夢ばかり見るようになったので、神の呪いかと思い生贄をつぎつぎ捧げる日々だ、と歌うのだけど、その狂気に近いなにかとか、冷酷さとか、エレクトラに少しばかり見せる母親の顔とか、歌でここまで見せられるのはすごいなと思った。もちろんシュトラウスの音楽自体にさまざまな感情がものすごく巧みに入れ込んであるのもある。ふたりきりの場面の入りの音楽では少しベルクっぽさもあり。

 

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エレクトラとクリュテームネストラ

(スクリーンショットにて、失礼します…)
舞台には大きな彫刻が足元だけ見えていて、頭が傍に転がっている。足元にロープが垂れ下がっていて、演者はそこに寄っかかったりして歌う。ラストシーンはエレクトラが踊り狂いながら巻きついていく…自分で自分を絞めるような。。

 

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舞台。頭が左手に。

 

このロープはオペラ全体の象徴なのだろう。エレクトラが惨めな境遇に縛られている、クリュタームネストラは「私の心が、絞め殺されるのを望んでいるのか」と歌う、最後エギスト(クリュタームネストラの愛人で現王)はオレストに絞め殺される(少なくとも演出上は)。そして、エレクトラと妹クリュソテミス、オレストを残酷に縛っている運命。

ドイツ語を聴きとりながら見ているとちょっと勉強になっている気がして面白い。少しは役に立っているのかなぁ?ということにしておこう。

 

散っても美しい花びら 〜『諦めない男 棋士 加藤一二三』

 

将棋界の大御所、加藤一二三さんのドキュメンタリーを見た。2017年に引退したときのもののようだ。

 

私は、自慢ではないが将棋に関して全くの無知だ。加藤一二三さん、偉業の持ち主で、諦めない将棋らしい・・という程度の前知識で見たのだけれど、彼の生きざまには本当に心を打たれた。

今では若い世代にも「ひふみん」と呼ばれて愛されるこの名棋士が、現役生活60年以上をかけて成し遂げた偉業には、途方もないものがある。

 

対局数2,505(史上最多)。通算成績、1,324勝、1,180敗。

 

誰にも破れない、「人知を超えた記録」だという。

「神武以来の天才」にして、泥くさいほどにひたむきに将棋と向き合った人だ。

 

私のためにもメモしておきます、将棋基礎知識。

将棋界には7つのタイトル戦 -棋聖戦、棋王戦、王位戦、名人戦・順位戦、竜王戦、王座戦、王将戦- がある。

このうち名人戦の歴史が一番長くて江戸時代に遡るらしいのだが、これにつながるリーグ戦=順位戦での成績によって棋士は5つのクラス -上から名人、A、B-1、B-2、C-1、C-2- に格付けされる。C-2の時点で降級点を取ると自動的に引退、ということになる。

 

加藤九段は名人から下って、全てのランクを経験した。現役試合の終盤、負けても負けても指し続けた。最後まで新しい将棋を開発するのだと言って研究時間を増やしながら、パソコンやインターネットを使わない研究を続け(古典的人間、とご自分で笑いながら言っていた)ひたすら自分の将棋を貫いた。

 

「小手先の目先の利益をとるというようなやり方は決してしなかった。求道者のよう」

 -羽生善治 三冠

そんな将棋には歳月の重みが感じられるそうだ。

過去のほとんどの名人は、ランクが下がれば自分で現役を退いた。B-2ランク以下になっても現役続行した名人は、加藤九段くらいらしい。

「引退するということは、生きがいとしていることがなくなるということ」と、きっぱりと言う。将棋を指すことへの熱意、闘志、愛を持ち続ける。どんなに負けても、気持ちだけは決して衰えない。

 

「将棋を打つこと、闘うことこそが人生。」

こう言い切れる生き方とは、何と潔く、美しく、気持ちのいいものなのだろう。

ちなみにタイトルは、「美しい花は、散ってもその花びらは美しいままだ」という加藤さんの奥さまの言葉。

 

「衰えない闘志。とにかく将棋が好き、という情熱が残っている」

-内藤國雄 九段

 

「私はつい最近悟ったのです。バッハは自分が能力があって、理屈抜きで名曲を作ったんです。私もそうあるべきだと思った。理屈抜きで私は将棋の才能をいただいている訳だから、ひたすらいい将棋を指すということに尽きる」

-加藤一二三 九段

 

加藤九段の将棋への愛は、それがやりたいことだとか、名誉なことだとかいうのを超えて「それに尽きる」としか言えない使命感のようなもので、彼はただその使命感を貫いてきたのだ。

 

 

以下、余談。

 

 

私は一ヶ月ほど前に、楽器との向き合い方でようやく「きっとこれでいいのだ」と確信できる方法を体感として見つけた。方法というか、弾く時の意識のありよう、向き合い方といえばいいのかな。

ある時突然、どんな風にやっても結果が出なくなり、上手くいかなくなった。そこから5年間ほどずっと手さぐりで迷い、考え、修正し続けてきた。その間にも少しずつ成果はあったし(そうでなければ心はもっとズタズタだったでしょう)、毎回悔いは残さないけれど、どこかで納得できていなかった。

 

(ちなみにこれだけは強調しておきたいが、音楽そのものは決して本来的には、勝負で相手を出し抜くという類のものではない。

もしも音楽にそういう気持ちが入れば、音に魂はこもらず、音楽の内容と関係ない演奏者の情念が音楽をこわしてしまう、と私は考えている。それはいい音楽ではない。)

 

もがくほどにどんどん沈んで行くようでたまには軽く絶望したけれど、それでも不思議と、ああ自分はこれが限界なんだ、と思ったことは一度もない。私はきっともっとよくなれる、といつもどこかで信じている。

弱音を吐いたり卑屈になりかけたことは数知れず、いつも答えを見つけたと思えば勘違いだった、みたいなことを繰り返してきたけれど、ようやくこれだというものがつかめた実感。大変だったけれどこれ、言ってもたった5年のことなんですよね・・・。

 

そうして、私は音楽が好きだ、と胸を張れる生き方をしようと決めた。

 

「私は、音楽という才能を多かれ少なかれ頂いたのだから、理屈抜きでいい音楽を目指して、弾き続ける、これに尽きると思っています。」

 

偉人のドキュメンタリーは何よりも人生について教えてくれます。

ではまた。

書くことの難しさ

 

ブログ初心者の私、早速ですが迷走しております。笑

まだ立ち寄ってくれる人が少ないのをいいことに、投稿した記事を編集しては消し、を繰り返している。こういうのって邪道でしょうか…。でしょうね。

 

そして、はたと悟る。

読めるからといって、書ける訳ではない。

ある文章を読んでいい文章だなぁと思えるからといって、自分がいい文章を書ける訳ではないことを!こうして書くと至極当たり前のことなんですが…

そして、あぁ私、自覚しているよりもずっと文章力がないのかもしれないな、と。

 

書きたいことは色々浮かぶ。最初はフワフワしてるけど、書いていくうちに調子が乗ってくるから、だいぶと文字数も増えていく。よしよしいい感じ、と思う。

途中、本当に書きたいことって何だっけ?と一抹の不安が過ぎるが、とりあえず気にせず書き進める。ここは頑張りどころだ。

いざ完成したら、もちろん投稿する前には一度ならず読み返すし、これでよし、と納得して投稿するのだけれど、次の日になって改めて読み返すと我ながら何が何だか分からない。

途中で文章がよく分からない方向に行ったり、使っている単語の意味合いが前後で違っていたり、簡単にいうと、支離滅裂だ。

 

文体だって、まだ迷っている。言い切り調「〜だ、〜である」にしようか、語り調「〜です」(というのかな?)にしようか。

気分や内容で変えたくなるけれど、ひとつの記事内で変えてもいいものかどうなのか。

 

そんな訳で後日下書きに戻してしまったり、ちまちまと過去記事に戻って書き直したりしている。

こんなブログのやり方、邪道なんでしょうか?

 

購読している他のブログを読むと、皆さん本当に文章もお上手だし、面白くて充実した記事を書いていらして。

これを書くのにどのくらいの時間と経験があるのだろう…と少し途方に暮れてしまった。初心者が何をのたまうか。

 

私にももちろん伝えたいことやシェアしたいことがあって書いているのだけど、上手く伝えられないもどかしさだったり、さてはそもそも伝えられるほどまとまっていない考えの断片ばかりなのでは、という危惧があったり、少し落ち込み気味でございます。

 

それでも、まだ始めたばかりだから仕方ない、と自分を大目にみつつ、少しずつ上達していけたらいいな。こんな私も、文章を書きたいと思って始めたのだもの、ろくに続かないでやめてしまうのは一番もったいない。

 

そうして、作家や物書きの皆さんは本当にプロフェッショナルなのだなと、改めて敬意を抱きつつ、最近の迷走への弁解を終えたいと思います。笑

 

ではまた!

 

 

怪物なのか人間なのか レオポルド・ショヴォー展

 

早くも9月ですね。

フランスはめっきり涼しくなっています。秋がもうそこまで来ている…私の大好きな秋!

 

秋といえば芸術、文化…なんだか鑑賞意欲が湧いてきたので、久しぶりに(でもないか、二週間ぶり?)美術館にぶらり足を運ぶ。

 

しかも毎月第一日曜日は入場無料になる。このおトクな日を逃す手はない。時間もあるし、、

ということで、気になったレオポルド・ショヴォー Léopold Chauveau展(オルセー美術館)に行ってきた。

今はコロナ対策のため、時間予約制になっている。並ぶストレスがなくて良い。

 

 

「怪物たちの国で レオポルト・ショヴォー」


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ショヴォーはフランスの画家で、絵本や寓話の挿し絵で有名。

1870年に生まれ、最初は医者としてキャリアを積むのだが、小さい時からラ・フォンテーヌの「寓話」などに強く惹かれていたらしい。

35歳から創作活動を始めて、彫刻や絵、次第に挿絵や一連の物語も書く。本格的に作家のみの活動を始めたのは、なんと50代だそう。

 

ショヴォーの作風は、とってもファンシーでかわいらしくて、でもちょっとブラック。

というか、子ども向けの絵本、と括るには残酷なのでは…と思うような描写もあったり。

 

例えばニワトリとアヒルが主人公の物語。

途中でツルがやってきて、ふたりとも捕まってしまう。

 

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途中でアヒルは海に落ちてしまい、最後には、鶴もニワトリも…

 

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ショヴォーは第一次大戦の際に、従軍医師として戦場に赴いているのだが、その時期に描いた絵を見ていて無性に説得力を感じた。

 

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この絵を眺めていて「なんだか人間ってみんな怪物みたいだな」と、ふと思った。

 

 怪物 (名)①あやしいもの、ばけもの。②[見かけや性質が]ふつうの人と違っている人物。

(三省堂国語辞典 第五版より)

 

 

一列に並ばされる兵士たち。そこでは彼らは、感情や私情や、戦闘と関係のない意志の類を持つ人間としては扱われない=怪物化されて、利用される。

ただただ、彼が属しその司令の下に戦い、そして命をその一道具として消費させられることを厭わないところの「国家」という、これは仮想の怪物(と言っていいと思う)に、ひたすら順じさせられる。

 

その国家を治めている組織も、兵士に命令を下す司令官も、皆んな同じ人間、同じ生き物のはずなのに。

この世界はこうも残酷、理不尽なものなのか。

 

チャーミングな作品にもシリアスな作品にも、こういうショヴォーの訴えが強く息づいているように私には感じられた。

 

簡単に人の命を捌く人間がいる一方で、捌かれる人間もいる。命はそんな風に選別する/されるものではないのに。

自分とは違った背景や考えを持った人間 -それは時に奇異な怪物であるかに見える- に対して、まぁ最初は警戒するのは仕方ないけど、どうして私たちはなかなか、笑顔で違いを受け入れたり、共存するという選択が出来ないのだろう。

優しく微笑みあえば、何かポジティブな関係や受容の感覚が生まれるかもしれないのに。

 

 

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ところで最近、ようやく美術館の楽しみ方が分かってきたような気がする。

簡単にいうと美術館には「ボーッとしに」行くのだ。

 

決して冒涜してるわけでは無くて、以前はものすごく意気込んで「よぉしたくさん吸収するぞ!」と勇んで行った結果、見終わる頃にはクタクタになっていたのだけれど、それはなんとなく不自然だなぁと思っていたのです。

結果今のスタイルに落ち着いて、とても心地よい。そもそも美しい物を見るのに、構える必要なんて全然ないのだよ…。音楽も然り。

 

贅沢に作品たちを眺めながら歩いて、目に留まったものがあればじっくり見て、味わう。それで、色々考えたりする。

それに館内ではよく歩くから、思考も巡り易い。身体は疲れるけど、頭はリフレッシュする。本当に贅沢な時間だ。

 

そういえばこのところ、老い、についてよく考えるなあ。と、先ほどホイッスラーの「母の肖像」を見ながら思い出した。そのことについて今度記事にしようかな。(記事内容があんまり重くならないように気を付けたいぃい

 

美術館ってやっぱり、いいね

 

ではまた。